イタリア旅行で世界遺産を訪れて勉強した経験をもとに、
徹底的にイタリアの世界遺産を通じて改めて歴史や文化を学ぼうと思い、制作しました。
「ピサの斜塔」で有名なイタリア中部の町ピサは、中世初期に建てられた聖堂や洗礼堂などの貴重な歴史遺産が「ピサのドゥオモ広場」という名前で世界遺産に登録されています。
ピサはイタリア中部の中でも最西端付近に位置し、かつては海に面していました。
この都市は、紀元前2世紀頃に古代ローマ帝国の軍港として支配下に置かれ、造船技術が非常に発達しました。
その技術を駆使して繁栄の時を迎えたのは11世紀のこと。
当時のイタリア半島では、キリスト教とイスラム教勢力が対立していました。
その中で、南方のシチリア島はイスラム勢力が実権を握っていましたが、ピサの軍はパレルモ(シチリアの町)でイスラム勢力を撃破し、西地中海の覇権を握ったのです。
それ以降、ピサは海洋都市国家として全盛期を迎えます。
ピサには交易で成功していたこともあり、潤沢な資金がありました。
そしてその資金を投入し、大聖堂を建立しました。
1063年のことです。
基本的な造りはロマネスク様式ですが、内装にはイスラム勢力からの略奪品をふんだんに使われたので、実際には東方文化と融合した様式の建築物です。
1118年に完成したサンタマリア大聖堂は、ピサの栄光の時を象徴する建物になりました。
しかし、13世紀終わりにはジェノヴァとの戦いに敗れ、1406年にはフィレンツェの支配下に置かれたことで、ピサは一気に衰退に向かいます。
イタリアの都市ピサには歴史的建造物が幾つかありますが、その中でも「ピサの斜塔」はその傾きによって、皮肉にも圧倒的な知名度を持っています。
ピサの斜塔は、大聖堂の鐘楼として建立され、1173年に着工しました。
当初の計画では、鐘楼は高さ100m以上になる予定でした。
しかし1185年、3層まで完成した時点で南に傾き始め、工事は中断。
工事が再開されたのは1275年のことです。
その時は、傾斜を何とか食い止めるために、上層階の中心軸をずらすなどの策を講じ、何とか完成にこぎつけようとしました。
しかし結局、当初の100mという予定には程遠い55mの高さで、1350年にやむなく完成となったのです。
それでも、その傾斜がかえってユニークなものとして受け止められ、現代に至るまで観光客が多く訪れるイタリアの一大スポットになりました。
現在の斜塔には294段ある螺旋階段があり、そこを上って頂上部分まで行くことが可能です。
1990年には一度傾斜によって塔が危機的状況に陥り、観光客の入場が禁止されましたが、2001年に再び公開されました。
この傾斜が生じた理由は、まず土壌が塔を建てるのに不向きだったことが挙げられます。
また、土台を3mしか造らなかったことで重さに耐えきれなくなり、傾斜したものとみられています。
現在は応急処置をしながら修復法を模索し、何とか持ちこたえている状態です。
ピサには有名な斜塔や聖堂のほかにも、複数の世界遺産認定の建築物があり、それらは全てドゥオモ広場にあります。
広場は、美しい建築物の数々があることから「奇跡の広場」と呼ばれています。
晴れているときに広場の芝生に寝転んで、日光浴をしている人も大変多いです。
広場には斜塔、聖堂とともに、洗礼堂と墓所があります。
洗礼堂は、建築家のディオティサルヴィが1153年に起工し、14世紀後半まで工事が続けられました。
200年にも及ぶ長い建設期間の間で建築様式も変わり、建物下層はロマネスク、上層はゴシック様式になっています。
高さ55mと斜塔と同じ高さを持つこの洗礼堂は、内部が35mあり、音響効果に優れた造りをしています。
また、上層・下層で全く異なる建築様式を持つので、内装・外装ともに個性的な印象です。
墓所(通称=カンポサント)は1278年に着工し、14世紀末に完成しました。
ここは長方形の建物で、ピサに住む貴族の墓として造られましたが、実際には古代ローマの石棺なども置かれています。
建物には美しい中庭があり、中庭にはローマ教皇がエルサレム・ゴルゴダの丘から持ち帰ったとされる「奇跡の土」が敷かれています。
これらの建築物は、1日で見て回ることのできる距離にありますが、できればピサでたっぷり日光浴をしながら建築群を眺めているだけの時間があると、より理想的です。